海応寺大鍛治の守り神さま

 
 

 

明治42年(1909)5月14日、海応寺 堂原、加良須美大明神は熊野新宮神社に合祀されました。

現存の棟札には、吉川広家により建立され、1724年に再建したと書かれています。

合祀当時の祠には、御霊代とともに鉄の霊狐(れいこ)の面(16x20センチ)が納められていました。


 からすみ神社について、近年わかってきたことがあります。

 この社号は産霊(むすび)大明神ではないかということです。1724年、またはそれ以前に再建された時、それまでにあった祠に記されていた社号の一字「産」が、なぜか「唐」としかよめなかったのではないかと思われるのです。

 幕末に書かれた神社明細帳には、唐須美神社(唐巣日神社・唐隅神社など明記)の御正体は、明彦大明神と同じく大産巣日神(火霊神)、または志路原八幡神社の前身の神社と同じ高御産巣日神・神御産巣日神との記載があり、この地域の鍛治の守り神としての信仰であることがわかります。ちなみに八幡神社は妙見神社、妙見八幡と言われていた時代があったことが伝えられています。(星の信仰については別の機会に)



 さて、狐面について。

 江戸時代には鍛治を生業としていた人々の守り神として稲荷神がしばしば祀られていたようです。また、文政の頃にはすでに稲荷神と霊狐が登場する物語、能「小鍛冶」が世に知られ、屢々舞われていたそうです。霊狐さまはこの地の大鍛冶・割鉄鍛治にとっても、祈りを込めた大切な面だったのではないでしょうか。




 小鍛冶とは、当時、製鉄に従事するものを大鍛冶というのに対し、刀鍛冶を小鍛冶と称していたそうです。古くは,この両者は兼業していたものであろうと書かれていました。霊狐の面の存在は海応寺の鍛冶の内実を伝えているのかもしれません。




『一条の院より剣の鋳造を命ぜられた小鍛冶三条宗近が、良い相槌がいないので刀が打てないと困って、氏神の稲荷明神に救いを求めようとしていたとき、道の途中で美しい少年が宗近に声をかけてきて、仕事を完成させるように励まし、自身が相鎚を勤めると約束して去っていきました。
 やがて狐の姿で現れた稲荷明神の使は鍛治の相槌を勤め、宗近は宝剣を打ち上げ、勅使に捧げます。』



 からすみ神社のこのお面は、稲荷明神の信仰にちなんで作られ、奉納されたものではないでしょうか。その時代には稲荷神として信仰されていたのかもしれません。


 

三本木より