熊野新宮神社という名称は明治になってから使われています。江戸時代は新宮大明神と呼ばれていたようで、さらにさかのぼって、厳島神社の分社として平安時代から続いた神社の歴史の変遷は大変に興味深いものです。
平安時代についてはさておき、中世、十六世紀には吉川元春が王子新宮(祭神伊邪奈美命)を上石に勧招し、やがて、広家が志路原の大明神と合祀して志路原に神社拝殿六十余宇を再建しました。このとき、元春は自彫りの獅子一頭と長刀一振りを奉納したとあります。
秀吉が九州に下向の折りに当社に参詣し、白羽征矢金銀珠玉馬鞍等種々の珍財を寄付し、百済征伐の祈願をしたと古記にあります。そのスケールの大きさに夢が膨らみますね。広家の妻は宇喜多秀家の姉が秀吉の養女として嫁いでおり、秀吉が夫婦のゆかりの土地の神社にそのような寄進をしたという話にうなずけます。
当時は新宮大明神と八幡神社が並んでいたようですが、もう一社「大明神」(市杵嶋姫命)の存在が江戸時代の資料に記されています。江戸末期の調査では、不思議なことに、新宮大明神の主祭神もいつの頃からか市杵嶋姫命となっています。明治になって吉川家の勧招した氏神様(海応寺、上石、志路原)は合祀され、主祭神は伊邪奈美命とされました。しかし、現代に至るまで、志路原には神仏混淆時代の厳島神社の御祭神、大明神=大日如来像(志路原の中央、字平家)、毘沙門天:毘沙門社(志路原の西側にある神社)、観音様(東側)、そしてもうひとつの本地、不動明王像がのこっているのです。このような変遷の中での事実は時代を通して神職家と当地の氏子の秘密の意志だったのかも知れません。この地の長い歴史を感じさせます。