鳥羽法皇と平清盛
鳥羽法皇と平清盛
上皇が何故、どのように御幸されたかということについては謎です。しかし、御由緒書きにあることについて推察してみると、平清盛は父忠盛の代から鳥羽上皇の信頼が篤かったこと、安芸守に補任(1146〜1156)されていること、また、鳥羽上皇が開拓荘園を熱心に求めておられたこと、そして同時期の史実として、高野山文書には、鳥羽上皇が高野山に対し(「安芸国可部庄用途百八石」を寄進する)と書かれていることなど、時代背景と合致するような事実でもあります。
写真は長寛二年(1164)、当地が厳島神社領志道原荘として立券された年の九月に平清盛が厳島神社に奉納した「平家納経」を写したものです。この奉納は、当時、現在の志路原の中央、字平家にあった荘園に関わる人々にも喜びのできごとだったことと思いやられます。この平家納経は、平家の繁栄を願い、一門同族郎等が一人一巻を分担して書写したものなのだそうです。
(注)江戸時代には、市杵嶋姫命をお祀りする神社が「大明神」として記録に残り、「新宮大明神」は吉川家が駿河から勧招した王子新宮の称号として記録に残っています。